二宮報徳会
二宮尊徳の生涯
文章ー小林幸子「小林幸子選道歌集『あたたかいひとに やさしいひとに』」より
二宮金次郎(尊徳翁)は天明七年(1787年)七月二十三日(陽暦9月4日)、今の神奈川県小田原市の柏山(かやま)で、農民の子として生まれました。両親は心優しい人で金次郎は愛情深く育てられましたが、五歳の時に大洪水で二宮家の田畑を失い生活も苦しくなります。
自然は多くの恩恵を与えてくれますが、時として大きな災害をもたらすことを、金次郎は幼少時に体験しました。少年時代から特定の師も持たず、天地自然を師として育ち、宇宙が日々繰り返し示す天理の教えを持ち前の鋭い感性、心眼、心耳でとらえ、それを古人が遺した『四書五経』等に照らし合わせ、人間が生きてゆくために正しい方法、幸せになれる方法を、まず自分で行い、間違いのない方法だけを取り上げていくといった、大変独創的な生き方、考えをされたのでした。
故に「報徳の道は、天地と共に生きる道であり、当たり前の教えであるからこそ、いつでもどこでも誰にでも生かすことのできる道なのだ」と諭したのです。
十四歳で父を、十六歳で母までも亡くし、二人の弟は親類に、金次郎自身は父方の伯父、万兵衛宅に預けられたのですが、一日も早く二宮家を再興したいと願い、伯父の家を手伝った後、その方法を見つけるために夜遅くまで勉強しました。
世話になっている伯父に迷惑をかけないために自分で燈油を得ようと、一握りの菜種を撒いたところ、七、八升の菜種が採れました。また捨て苗を集め荒地を耕して植えたところ、秋には一俵あまりのお米を収穫することができました。この二つのことから、自然には小さなことでも人が心をこめて一生懸命に働けば、大きな実りを与えてくれる法則があるのだと、わずか十七歳で悟りに至るのでした。それが『積小為大』の法則で、報徳生活の根本思想となり、これを実行し、無から見事に二宮家を復興することができたのです。
尊徳翁は少年時代から両親を助け、よく働きました。わずかな時間を見つけては勉学にも励み、独学で神道、儒教、仏教の教えを学びとって行ったのです。この働きながら学ぶ姿が学校でよく見る「金次郎像」となったのですが、成長してからは身の丈六尺(約182cm)、体重二十五寛(94㎏)という体格に劣らず、数々の偉業を成した人物であります。
士・農・工・商 の江戸時代に、尊徳翁は武士も農民も商人もそれぞれが、自力で精神的にも物質的にも、豊かに安心して生活してゆける社会の建設を願い、その実現のために半生を捧げつくされました。
尊徳翁の生涯の前半35年は、生誕地小田原で農民として過ごし、後半の35年は武士の立場を与えられ、野州桜町(今の栃木県二宮町)をはじめ、十一ヵ国六百数十ヵ村の復興再建に取り組み、五十六歳の折には江戸幕府の幕臣にまで取り立てられます。この翌年から尊徳(たかのり)を用い、没後尊徳(そんとく)先生と呼ばれるようになりました。
尊徳翁の後半生に多大な影響を与えたのが、小田原藩主大久保忠真公です。尊徳翁より六歳上の忠真公は大阪城代、京都所司代を経て、幕府の老中となりのちに筆頭老中となる、まさにエリートコースを歩まれた方で、京都から江戸に赴任する途中、小田原領内に立ち寄られ、「農政六ヶ条」というお布令を出すのですが、同時に模範篤農家や善行者の表彰も行いました。
尊徳翁もその中の一人に選ばれ、表彰文の「…その身はもちろん村為にもなり」という文言に心を打たれ、その日より自分本位から他人本位に精神を入れ替え「今日より自他を振り替えた」と日記にも書きました。三十二歳の時です。
その後忠真公より依頼され、大久保家の分家にあたる宇津家の領地、桜町の復興再建をすることになりました。ここは土地も農民たちの心も非常に荒れていました。尊徳翁は再建にあたり、先ず現地や江戸屋敷を訪れ、過去数十年の年貢収納の変動・人口の増減、田畑の荒れ具合、用水や排水の状況、各農家毎の耕地面積や家族構成、借金のあるなしに至るまで、綿密に調査し、分析をして当時の桜町の分度(尊徳翁が考えた独特の仕法である天分の度合い)を出したうえで、十数年間の仕法計画を立て、再建を始めることになりましたが、その赴任にあたり、今まで苦労して築き上げた家財、田畑等全財産を売り払い、その代金を桜町領復興資金とする、まさに『全推譲』を実践したのです。
三十七歳の尊徳翁は波子夫人と二歳の息子 弥太郎と共に『一家を廃して万家を興す』という覚悟を持って桜町に移りました。再建仕法が成功されると困る役人や、本来怠け者の反対や妨害を受け、四年目から仕法が進まず、七年目に成田山新勝寺に籠り、二十一日間の断食祈願をしました。そこで相反する二つの物事、例えば天と地、光と影、善と悪、貧と富等の片面だけを見るのではなく、その両面を『一円観』でとらえることの大切さを悟りました。またすべてに固有の徳(取柄、価値、良さ等)があり、そのもろもろの徳が融け合い和して初めて別の徳の存在があること、その隠れた良さを引き出し活かすこと等も悟りました。後にこれを『一円融合』というようになりました。
その後は仕法も順調に進み、約束の十年で荒地も開発し、人々の心も立て直し、自力で生活向上ができるよう、見事に桜町領を生き返らせたのです。この桜町仕法の成功後、多くの藩から再建依頼があり、また、多くの門人たちが尊徳翁の元へと集まりました。
徳川家康公を祀った日光東照宮を中心とするご神領地、復興事業の中途の安政三年(1856年)十月二十日(陽暦11月17日)、栃木県今市で七十年の天寿を全うされました。
文章ー小林幸子「小林幸子選道歌集『あたたかいひとに やさしいひとに』」より